あの日のこと

筆:宮崎景衣更新日:2016.11.15

熊本地震のことを話す時、多くの人が口にするのは「まさか2回目が来るなんて思わなかった」という言葉です。「前震」と「本震」と呼ばれるそれぞれ大きな揺れが2回来た、それが熊本地震の大きな特徴だと言われています。このサイトの執筆を担当している私は南阿蘇村に住んでいます。時系列で起こったことを文章にしてみたいと思います。

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2016年4月14日午後9時26分、「前震」発生

夫と当時4歳の娘と夕飯を食べ、いつものように団らんをしていました。なぜだったのか忘れましたが、キッチンに3人で集まっていたその時でした。ゆさゆさ…ゆさゆさ…。「地震だ!」私はキッチンの下の小さいテーブルの下に娘と入りました。揺れは割と強かったですが、私の住んでいる地区は「ゆさゆさ」と揺れて棚に無造作に置いていた書類が下に落ちる程度でした。

夫がすぐにテレビを付けました。益城町が震度7!大変なことになっている!私達はすぐに徒歩2分のところにある夫の実家に行きました。「大丈夫ね?」と夫の母が玄関で出迎えてくれました。「お義母さん大丈夫ですか?」こんな会話を交わし、私達は家の中に入りました。夫は職場に行かなければいけません。でも夫は晩酌していたので、飲んでいない義理の母が夫を送って行ってくれることになりました。今思うとかなりぞっとします。本震で大規模な土砂崩れが起きた国道と落ちてしまった阿蘇大橋を通って義理の母と夫は職場に行ったのですから。

その日は娘とともに夫の実家に泊まりました。怖かったので、いつでも外に出られてしかも増築された新しい部屋(揺れに強いと思われる)のベッドに娘と寝させてもらいました。

夫は翌日の夜に帰ってきました。自宅待機になったのです。夕飯を食べて、さあアパートに帰ろうか、と夫は言いました。しかし私は拒否しました。なんでそんなに拒否したのか実は良く覚えてないのですが、かなり強い調子で拒否したと後に夫から聞きました。その判断が間違ってなかったことを後に私は知ることになります。

寝る場所のことで軽くもめました。私は娘と昨日寝たベッドで寝たかったのですが、夫や義理の母は、「もう地震は来んよ」と中の方の古い部屋で寝ることを勧めました。結局、私だけ新しい方の部屋のベッドで寝ることとなりました。娘は夫と中の部屋で寝ました。

2016年4月16日午前1時25分、「本震」発生

「揺れてる!!」夜中にベッドから落ちて起きた時には既に揺れていました。たぶん揺れでベッドから落ちたんだと思います。ガタガタガタ!ガタガタガタ!天井が今にも落ちてきそうでした。今でも忘れません、一瞬、もうだめだと思いました。一気に目が覚めた私は、毛布をかぶってやり過ごすか外に出るか迷いましたが、けたたましく非常音が鳴る携帯を持って、靴下をはいたまま外に出ました。「外に出よう〜、外に出よう〜」と中にいた家族に呼びかけました。

「あ!娘が中にいる!」と気づいた時には、家の中で義理の母が「大丈夫ね〜??」と私に向かって言っているのが聞こえました。「外に出ていま〜す!」。続く余震の中、夫が娘を抱きかかえて私に渡しに来ました。義理の母が羽織るニットをくれました。このあたりの記憶があいまいなのですが、家の中はとてもぐちゃぐちゃでした。食器棚をはじめ、元の場所にあったものは何一つないように見えました。こんなにぐちゃぐちゃなのに、食器が落ちる音などには気づかなかった、いつこんな風になったのか思い出せないのです。きっと私はよほどパニックだったのでしょう。

ゆっくりとしか歩けないおばあちゃんも義理の母の介助でやっと外に出ることができました。夫は着替えて職場に行く準備をし、車で出ていきました。残された私と娘、義理の母と父、おばあちゃん、夫の兄は車に乗り込みました。携帯を見ると、圏外になっています。私はそれを見て改めて事の重大さに気づきました。木が余震でぐらりと揺れています。おばあちゃんは「おぜえ(怖い)…」と言っています。90数年も生きてきて、こんなことは初めてなのでしょう。

夫がしばらくして帰ってきました。なんと、国道が通れない、前を走っていた車が引き返してきていると言うのです。親戚や夫の職場の同僚達が集まってきました。赤橋が落ちている、そんな情報を教えてくれたのは夫の先輩でした。赤橋とは阿蘇大橋の通称で、昔赤く塗られていたことが名前の由来です。大きくて丈夫そうに見えたあの赤橋がどうやって落ちるんだろう。最初はデマだと思いました。しかし、それは本当のことだったと車の中のテレビを見て知ることとなりました。夫は、同僚や先輩と歩いて職場に行きました。

私の携帯は圏外だったので、夜勤中だった父や福岡県の久留米市に住む妹には、義理の兄の携帯を貸してもらって電話しました。久留米に住む妹に電話すれば、他の姉妹にも連絡してくれるはずです。妹に電話すると、阿蘇市の実家の母が電話に出ないとのことでした。後で聞くと、母は近所の人と一緒に農業用ハウスの中で一夜を過ごしたとのことでした。でもその時は、寝室の棚か何かの下敷きになっているのではと心配でなりませんでした。父に電話すると、夜勤中だから分からないと言うのですから。こんなに母を心配したことは、後にも先にもありません。

明るい月夜でした。トイレに行きたくなりましたが、水道が止まっているので、畑の近くで用を足しました。でも、畑で用を足すのは後に義理の母に止められました。誰が見ているかわからないからです。

義理の兄の車は大きいので、家族全員乗ることができました。家の下敷きにならないよう、家から離れたところに車を泊めて、その日は朝まで車の中にいました。度重なる余震がありましたが、車の中にいれば安心でした。次の日もその次の日も、結局久留米の妹の家に避難した19日の前夜まで私と娘は車中泊しました。義理の父や母、兄は家の中で寝ていました。私は、自分がどんなにびびりな人間なのか思い知りました。娘は、車中泊でもいびきをかいて寝ていたので、きっとびびりではないはずです。私は、車中泊で寒さと孤独にうちひしがれそうでした。もし暴漢が襲ってきたらどうしようとも思いながらも、車中泊はやめられませんでした。

本震の日、空がしらばんできて朝になると、いろんなことが分かってきました。夫の実家の西側にあるブロック塀が、がたがたと崩れています。ブロックがくずれるってどういうこと…。結構しっかり積んであるだろうに…。確かに揺れは大きくて、神様に助けてくださいと祈ったが、まさかここまでとは。

義理の兄が、タブレット端末でテレビを見せてくれました。赤橋がやっぱり落ちてる。国道は、すごい量の土砂で埋まっている。南阿蘇村だけでなく、益城町、熊本市、そのほか熊本県や大分県の多くの地域で被害が出ている。何でこんなことになったのだろうという思いでいっぱいでした。その日のご飯は、前日のご飯の残りで作ったチャーハンと、カップ麺を義理母と作りました。食欲がない家族もいました。水は、電気ポットに入っていたお湯を沸かして使いました。電気と水道は通っていませんでしたが、プロパンガスなのでガスは使えました。水は、近所にわいている水を使うことになりました。トイレに流す水はにごったわき水、ご飯作りや飲料水にはきれいなわき水と使い分けました。

わき水といっても、きれいな方は水道の余剰水とのことでした。仕組みはよくわからないけど、わき水があって本当に良かったです。牛を飼っている家なんかは、大きなタンクと電動ポンプをわいている箇所に持って行ってどんどん水を持っていけるぐらい、水は豊富にわき出ていたということです。義理の兄と義理の父が大きな漬け物樽を軽トラックに乗せてわき水をくみに行ってくれていました。男手がない人や、漬け物樽など大きい入れ物に水をくめない人達は大変だなと思いました。

本震後何日目かに、アパートの様子も見に行きました。足の踏み場がありませんでした。高い家具がない私の家は、食器は割れましたが幸いガラスの破片はありませんでした。しかし、この惨状をどうやって片付けようかと途方にくれてしまいました。熊本地震は余震の多さも特徴ですが、アパートが耐震だと知るまでは怖くてとてもアパートの片付けをしに家に戻るということは考えられませんでした。寝室は、バッグをかけていた高いポールや三段ボックスが倒れて本が散乱しており、ここで寝てなくて本当に良かったと思いました。

朝が待ち遠しい車中泊の日々。家の下敷きで圧死ってどういうことだろうと考えたり、阿蘇山が噴火したらどうしようと不安になったり、ラインで送られてくる不審者情報におびえたりしてよく眠れませんでした。不審者は実際に逮捕されていますから、ライン情報はあながちうそでもなかったと思っています。でも●月●日に大きいのがまた来るとかいうデマがあったのも事実です。私は久留米の妹宅に娘と避難し、やっとお風呂に入って落ち着くことができました。

ざっと書いてみましたが、これはあくまで私の体験談です。10人いれば10通りの体験談があります。このサイトにはママ達の体験談をたくさんのせていますが、いずれママ達以外の体験談も聞いてみたいと思っています。

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